Tuesday, April 10, 2018

「森敦氏への手紙」

休日前、いろいろの腹立ちまぎれに、深夜〜早朝の読書。和田夏十『和田夏十の本』から森敦『意味の変容』へ。好きなものしか好きじゃない、好きなものは何度でも触る。そんなわたしのことを、狭量っていうのかもしれない。

でも森敦の言葉に触れるとき、やっと重力から解き放たれるっていうか、息がしやすい!みたいな感じになるっていうか、「知りたい気持ちがおさまらない」そんなどうしようもない罪深さの成れの果てに、こんなチャーミングなものがあるなら、なんていいでしょうって思って、力がわく。

あと、何回読んでも浅田彰による解説「森敦氏への手紙」がほんとにたまらん!
  言ってみれば、森さんはどこにいるときでも他所から来た二重スパイだったのであり、どちらの側につくでもない不安定な姿勢を保ちながら、その姿勢だけが可能にする情報収集活動を続けてこられたのではないでしょうか。
 インテリジェンスという言葉が「知性」と同時に「諜報活動」を意味するように、そもそも知識人はそのような二重性を運命づけられている筈です。 
 人は、現実という虚構にへばりついて真面目になるか、理想と現実の距離をイロニーに託すか、いずれかをとるほかなく、どちらとも割り切れないところから生ずるものであるユーモアは失われてしまうのです。 
 ほんとうに大切なことは、むしろ、決定不能性を大いなる肯定をもって受け入れること、決定不能性を逆手にとり、それをいっそう自由な境地への入り口とすることであるように思われます。 
 実際、望遠鏡を組み立てたり、ダムを作ったり、活字を組んだりする現場から、つまりは「マイナー科学」の宝庫から、森さんが途轍もなく深遠な認識をひょいと拾い上げてこられる手つきは、ほんとうに魅力的で、不思議なくらい感動させられてしまいます。
湿度0%!文学に拠らない、なんてロマンチックなテキスト!(浅田彰はいつもですけど それはそれは人が死ぬくらい)

霧のような「センチメンタル」を、冷淡な論理で切り砕いて、その湿度を、主体性の炎で燃やし尽くすこと。わたしが惹かれる「表現」というものを手短に語るなら、そういうことになると思います。

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